卒業生のメッセージ

Name
韓 鉀洙(ハン ガプス)
University
2003年3月 大学院工学研究科博士後期課程修了/dd>
After graduate
韓国・江陵大学校専任講師

今,韓国の江陵は冬に入っています。大分から帰国して2回目の冬を迎えます。2000年の春,桜の花が満開の時に大分大学に入学し,研究室の生活を始めたのが昨日のことのように私の記憶に生きています。

私は大分大学大学院工学研究科の博士後期課程の学生として,工学部の佐藤誠治先生の都市計画研究室で3年間研究を行いました。研究室の生活の思い出は歓迎会,ペーパーフェア,さまざまな発表会,ソフトボール大会,忘年会,そして飲み会などの単語で要約できるでしょう。外国人として日本語もまだ上手になってない状態で始まった留学生活はそんなに易しい生活ではありませんでした。しかしながら,たまに(?)あった先生との飲み会,そして土曜日にラーメン屋さんへ食事に一緒に行った事などは生活の活力を受けるよい機会となりました。3年間で課程を終え学位を取る事が出来たのは先生からの研究指導とお世話のお陰であると感謝しています。

私の留学生活は豊かな恵みを受けた時期であると思います。能力と人柄を持つ指導教授(!),経済的な後援をしてくれた大分ロータリー財団,そして親切な近所の人々との出会い等が留学生活を祝福してくれたと思います。二人目の娘が大分で生まれたのも私に大分を忘れないようにするよい思い出であります。

昨年,博士学位を取得し,帰国して休む時間もなく非常勤講師としての生活が始まりました。研究を行いながら就職の準備のため論文を書いたり発表しに行ったり,とても忙しい時期でした。去年の年末には,国立江陵大学校生命科学大学環境造景学科の専任講師として採用されました。専攻は広域造景(景観)計画で大学院での研究が大きく役立ちました。今年から教員としての生活が始まり,新しい環境で講義と研究を行いながら適応する時期であります。

これからも大分大学の出身としてプライドを持ち,研究者としてもっと努力して行きたいと思います。また,留学の経験と長所を生かして,江陵大学校と大分大学間の国際交流を図って,研究者と学生の交流に力を傾けたいと思っています。(2004年12月)

Name
満 江(マン ジャン)(中国)
University
2002年3月大分大学大学院経済学研究科修士課程修了

月日の経つのは早いものです。日本ではそろそろ紅葉が見える時期に入るでしょうが,大分大学での留学生活を思い出すと非常に懐かしいと思います。私は2000年4月から大分大学経済学研究科の修士課程に入り,薛先生のご指導の下で,発展途上国の経済発展を中心とした開発経済学を勉強してきました。在学中に,先生方を始め,職員の方も非常に親切に接してくれ,また,世界各国の留学生の皆さんと触れ合うことによって,とても充実した留学生活ができたのではないかと思います。

2004年4月,私は日本を離れて帰国しましたが,同年の9月に三菱商事北京事務所(現三菱商事中国投資有限公司)に 就職し,社会人として新しいスタートを切りました。現在の主な仕事として「黒いゴールド」と言われる石炭の国際貿易をやっています。石炭と言ったら,皆さんはたぶん「黒い,汚い」というイメージを持っているかもしれませんが,今まで石炭は石油,天然ガスと同様に非常に重要なエネルギー源として製鉄,製鋼,発電など幅広い分野で使われています。日本は世界有数の石炭の輸入大国であり,年間大体2600万トンの石炭を中国から輸入しますが,そのうち500万トンぐらいは三菱商事を通じて中国から日本へ販売したものです。

皆さんご存知かもしれませんが,世界の主な石炭生産国は豪州,中国,カナダ,アメリカなどであり,中国は石炭を輸出している一方で,自国でもたくさんの石炭を消費しています。

中国では,第一次エネルギー消費量の7割ぐらい(2001年)が石炭であり,近代化建設の戦略目標として,2010年のGDPを2000年の2倍にすることを実現しようとしています。このような経済成長によって,これまで中国経済を大いに支えてきた石油,石炭などエネルギーの消費量も大幅に増加すると思われます。しかし,中国では石炭利用に伴う大気汚染は依然として深刻な状況にあり,石炭の有効利用およびクリーンなエネルギー源の開発に期待が寄せられています。最近,私が注目しているは石炭の採掘に伴い発生する炭鉱メタンガス(CMG:Coal Mine Gas)ですが,このメタンガスは爆発しやすく,そのまま大気に放流すると温室効果はCO2の21倍もあります。ですから,石炭を採掘する時にきちんと管理しないと,炭鉱事故,大気汚染の原因にもなります。日本はこのメタンガスに関する回収,有効利用の技術がとても進んでいます。こういう技術を生かして中国の炭鉱保安,環境保護,地域の経済発展に少しでも寄与できればと思い,私は最近日本の専門家と一緒に中国の各地で現地調査をして,日本のメタンガス回収技術を用いて中国の経済の遅れている地域でメタンガスを使って発電するプロジェクトを計画してます。今後,この分野において,さらに力を入れて頑張っていきたいと思います。

この短文を作成している途中に,大分大学在学中に大変お世話になった元経済学部の細川順正先生(現徳山大学教授)が北京の方にいらっしゃいました。4日間の間に細川先生と共に北京初秋の風景を満喫し,最後の1日は先生が私の自宅でホームステイということで,夜中まで一緒にビールを飲みながらアテネオリンピック大会の試合中継を観戦して,中国,日本代表にも応援して,大変楽しい時間を過ごしました。

今振り返ってみれば,私は大分大学での留学生活を通じて,単なる知識だけではなく,学問に対する真摯な態度,人間としてお互いの理解の大切さなど大変有意義なものを学んだのではないかと思います。これは私の人生にとってとても貴重なものであり,また,大分大学というきっかけで作ったたくさんの思い出は私の心に永遠に残るでしょう。

Name
田宇新(でんうしん)(中国)
University
2002年3月大学院教育学研究科修士課程修了

●あっという間の2年間

中国の諺に「日月如梭,光陰似箭」という言葉があります。日本では「光陰矢の如し」といいますが,まったく月日の過ぎるのは早いものです。私が2000年4月から2002年3月まで大学院教育学研究科で学び,無事修士課程を修了してからすでに2年経ちました。いま振り返ってみれば,大分大学での留学生活は私にとって大きく成長することのできた大切な時間だったと思います。

●上海は私の誇り

振り返れば,私は1999年4月から大分大学教育福祉科学部の研究生となり,神戸先生(現放送大学大分学習センター所長)のご指導のもとで,現代の上海を中心とした中日交流史の研究を始めました。そして翌2000年4月に大学院教育学研究科に進み,現代中日交流史,特に中日戦争時期に上海で活動したジャーナリスト鄒韜奮(すうとうふん)について研究しました。修士論文は「鄒韜奮研究」を取り上げ,彼の生い立ち,上海での学生時代,および1930年代上海を舞台に繰り広げた民主主義活動を明らかにしました。

大分大学在学中には,指導教員を始め,所属していた社会科教育の先生方の熱心なご指導を受けながら色々なことを学びました。そして現在,上海に生まれ育った私は,上海の持つ魅力を再確認することができ,上海を誇らしく思います。

●立派な中国語教師をめざして

私は大学院卒業後,研究生の傍ら,大分大学教育福祉科学部の中国語の非常勤教師として2年間勤めました。教師という仕事の責任の重さを実感しました。日本人にとって,中国語の発音はたいへん難しいようです。中国語を教えるポイントとして,より一層正確で美しい発音がまず重要なことだと思います。また中国語を教えるとともに,中国文化や中国の現代事情を伝えることも不可欠だと思います。誠実かつ熱意をもって教えればきっと学生からも信頼されると思います。

そして今年も引き続き中国語の非常勤教師として大分大学教育福祉科学部に採用されました。また,日中友好協会の中国語教師として大分市民の人たちに中国語を教え,中日友好にも努めています。私が教師の仕事に就けたのは,私を支えてくれた先生方のお陰だと心より感謝を申し上げます。自分が大分大学で学んだことが,必ず中国語を教える上で役立つに違いありません。これからも応援をよろしくお願いします。

Name
張 瑞麗
University
2001年3月大分医科大学大学院大学 医学系研究科看護学専攻修士課程修了
After graduate
現在,河北医科大学看護学科助教授
p>日本ではそろそろ桜の季節を迎えていることだと思います。私は,4年前に医学部看護学科老年看護学の研究生として1年半の研究期間を終えた後,医学系研究科看護学専攻修士課程に入学しました。入学式の日,共に入学した友人の末成先生(現,看護学科助手)と2人で由布川小学校の裏手にある桜の木の下で,記念写真をとったことが懐かしく思い出されます。その時の私は,満開の桜の木の下で,少し緊張した顔をして,未来への不安と希望で一杯でした。大学院での2年間は,研究の楽しさと苦労の両方を経験することができ,とても充実した留学生活でした。看護学科の先生方のご指導や院生のサポートはもとより,主人と息子の力も借りながら,やっと無事に修了の日を迎えることができた時には,ほっとしたと言うよりも,『これからが始まり!』という思いを強く抱いたことを覚えています。

帰国後,私は中国河北省石家荘市にある河北医科大学の看護学科の教員として,看護教育に携わることになりました。留学前は同附属病院で看護師として勤務していた私にとって,それまで経験したことのない分野で,戸惑いがありましたが,3年余の留学経験での学びが後押しとなり,教育の仕事に就くことを決心しました。河北医科大学は1915年に設立され,89年の歴史がありますが,看護学科は開設されてまだ間もない状況にあります。そうした中で,私は,看護学科の教員の1人として,留学時に学んだことを活かしながら,学生の豊かな人間性の養成を目指したカリキュラムの構築,授業設計,教授方法の工夫等に取り組んでいます。特に,カリキュラムを組み立てる仕事の中で私が強く推し進めたのは,近年高齢化がすすむ中国の将来を見据えて,「老年医学」と「老年看護学」を科目として立ち上げたことです。私は,修士論文として「中国石家荘市の壮年期住民がもつ高齢者に対する介護意識」というテーマに取り組みました。石家荘市は私の居住地ですが,今では65歳以上の老年人口が10%以上を占めるようになり,高齢者介護の問題が近い将来生じることは間違いありません。帰国後もこの研究を継続していますが,研究と教育を通して学生と共に高齢者の健康とその支援について考えたいと思っています。

まだまだ教育者としては初心者ですが,指導教授であったマーナ豊澤英子先生(現,McMaster大学)の看護教育理論の授業,老年看護学の講義・演習,臨地実習の指導などで学習した看護基礎教育の方法を活用し,自分でもさらに知識を得ながら,よりよい看護教育を目指したいと思います。大変な日々ですが,疲れていても,学生の笑顔を見ると,ほっとした気持ちになるなど,教師としての満足感が少し分かるようになりました。

『大分は私の第二の故郷』といつも思っています。満開の桜,温泉,静かな町,そして友人の笑顔,いつかまた大分の皆様に会えることを楽しみにしています。

Name
季 衡馥 (韓国)
University
2003年3月 工学研究科博士後期課程環境工学専攻修了

春に韓国に帰ってからもう,初雪を向かえました。昨年は私の今までの人生で一番忙しい日々を過ごしました。帰国してからは職場と大学での講義で,また家のいろいろな行事で猫の手もかりたいほどでした。弟の結婚,父と家内の父の還暦のお祝い,大分で生まれた息子の初誕生日など,喜ばしいこともたくさんありました。学生から,社会人また家庭を持つ成人として,大分で学生という身分に与えられていた余裕とは違う責任と努力が一層必要とされる立場になりました。

私は仁川発展研究院という仁川広域市の政策をサポートするところで働いています。所属している部署は大学の専攻を生かした都市計画研究室です。市が依頼した都市計画関連事項について研究・分析を行い,報告書として提出するような仕事を担当しています。現在,担当・サポートしている区は43万ほどの人口の規模ですので大分市と同じくらいです。もちろん,市ではなく区の仕事なので仕事の量は多くはありませんが,新米である私としてはまだいろいろと学びながらやっていく感じで毎日のように残業をしています。しかし,長い時間,悩みながら研究し分析した結果が施策として受け入れられるときはやりがいを感じます。

なお,指導教授であった佐藤先生の「都市計画は歩きながらやっていくものだ」という教え通りに,図と文献で机の上で悩むより現場で歩きながら,直接目にして考えるといいアイディアが浮かんでくるのを実感しています。それで現場でチーム員と過ごす時間が増え,顔が日焼けしてきました。

今の職場がある仁川は韓国では初めての開港都市でもあり,現在は韓国の関門である仁川国際空港が位置しており,中国との貿易を担当する世界的な規模の港もあります。昔も今も国際的な交流の多いところだと言えます。

しかし,国際的な情勢が急変する今,世界的な流れに合わせ情報化都市として変化しなければならない仁川は現在,都市再生を急いでいるところです。市が持っているこのような考えによって,秋には都市再生というテーマで日本を訪問しました。日本は現在,総理大臣の下で都市再生本部を置いて,世界の国々よりも兆速に国家主導で都市再生を行っております。それで,東京都市再生本部,大阪都市再生本部,横浜市役所,神戸市役所を訪問し,進展した日本の都市再生政策について調査し,都市再生に関する論議を行うなど意味深い時間を過ごしました。久しぶりの日本訪問でしたが,出張期間,私の頭には大分のことが離れませんでした。近くだったらすぐ行って知人にも会い,佐賀関で釣りでもしたいという気持ちでした。大分での情は大都会では感じられませんでした。

また,大分で一緒に留学生活を過ごした家内は韓国精神文化研究院という国策研究所で日韓の間に問題になっている日本歴史教科書研究に関する仕事をしています。私たち夫婦は大分大学で学んだものと大分で感じたことなどを生かし,両国民が心から望む日韓国際交流のために努力していきます。

大分大学は大分医科大学と統合しより大きく,より立派に変わったと耳にしました。少しさびしいことは卒業の際の大学マークが変わったということですが,学校規模や内容的な面からは発展したようで,遅くなりましたが,卒業生としてお祝い申し上げます。国際的にも競争力のある大学として生まれ変わるためには現在,大学で学んでいる皆さんがより学問に増進することや卒業生が社会で頑張っていくことではないかと思います。分大の皆さん,頑張りましょう。



大分大学

分大生たちの「今」がここにその様子をぜひご覧ください

大分大学 分大留学生奮闘記 トビタテ!留学JAPAN 大分大学への留学案内